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Jリーグ優勝記念!川崎フロンターレの軌跡~スポーツ不毛の地の開拓~【コラムその20】

川崎フロンターレが2020年J1優勝を果たしました!おめでとうございます!

 

今年はコロナの影響で過密日程だったり、選手の交代が1試合5人までできたり、無観客だったりといろいろ特別な一年だったことは間違いありませんが、それを差し引いても川崎フロンターレの強さは圧倒的だったというほかありません。

 

そこで今回は優勝を記念して、川崎フロンターレのこれまでの歴史を振り返ってみたいと思います。

フロンターレはスポーツ不毛の地と言われた川崎で成長してきたいわば不屈のクラブです。その裏にはあまりに地道な活動がありました。

 

等々力陸上競技場の記事と合わせてお読みください。

sportskansen.hatenablog.jp

1.閑古鳥が鳴く等々力からの出発

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川崎フロンターレの始まりは1955年、富士通サッカー部。1997年にJFLに参加、Jリーグを目指すところから戦いは始まったのでした。

 

1997年は勝ち点1の差でJリーグ入りを逃し、1998年は準優勝するもののJ1参入プレーオフで福岡に逆転負けを喫し、J2に参入。この時からシルバーコレクターぶりを発揮していました。

 

このころの川崎フロンターレは、とにかくお客さんが入りませんでした。J1に昇格した2000年こそ7000人を超えたものの、再度J2に降格した2001年には平均観客数が3000人台にまで落ち込みます。

 

もともと、川崎というのはスポーツが根付かない街として有名でした。

例えば川崎球場は大洋ホエールズやロッテオリオンズの本拠地ではありましたが、観客が勝手に流しそうめんを行うなど閑古鳥が鳴く球場の代名詞でありました。これはこれで味はあるんですけど、興行として考えると…。

どちらも結果的に川崎から離れていきました。


川崎球場 流しそうめん【古き良きパリーグ】

 

またJリーグ開幕戦を戦い一時代を築いたヴェルディ川崎も、「東京にいいスタジアムがなかったから川崎にした」というだけであり、東京スタジアムが完成するとさっさと東京に移動してしまいました。川崎は見捨てられたのです。

 

大洋、ロッテ、そしてヴェルディ…。さまざまなチームが川崎を本拠地にしては去っていく状況を見て、川崎市民にもあきらめの気持ちがあったことは想像に難くありません。

 

更に川崎の街はとにかく治安が悪い、汚いといった悪いイメージが先行していて、川崎市民も川崎に対する誇り、愛着なんてものはなく、東京で全てのことを済ます人が多いために「川崎都民」という言葉まで作られるほどでした。

 

そんな川崎の街を変えるべく、川崎フロンターレが立ち上がります

 

2.川崎をひとつに!

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フロンターレが取り組んだのは、川崎という街に根付き、健全な街に変えていくことでした。

 

地道なビラ配りから始まり、学校を巡回してのサッカースクールの実施、地元のお祭りへの参加、クリスマスでの入院児の訪問「青いサンタクロース」など、とにかくフロンターレを知ってもらおう、川崎になじもうと地域の活動に積極的に参加していきました。

また各商店街が主催でそれぞれの試合のMVPを決める「あんたが大賞」も行われました。これにより試合を見て愛着を持ってもらうきっかけを作ったのです。

 

これらとてもJリーグクラブとは思えない地道な活動により、スポーツ不毛の地だった川崎でフロンターレは少しずつお客さんを増やしていきました。観客は現在も増え続けており、今や等々力競技場のキャパシティいっぱいにまでなってしまいました。

 

川崎フロンターレのもう一つの特徴として、川崎の異業種との積極的な交流が挙げられます。

例えば川崎唯一の相撲部屋である中川部屋との交流はその一つです。

中川部屋の力士がスタジアムに来て作るちゃんこは名物になったり、相撲にちなんだイベントが行われる「イッツア相撲ワールド」が開催されたり、逆に春日王関の断髪式にフロンターレの武田社長が参加するなど、交流を深めてきました。

諸般の事情により中川部屋がなくなってしまったのが心配ですが…。

 

あるいは、オリジナルの算数ドリルを作って小学生に配布したりしています。自然と地元の子供がチームになじんでもらう取り組みというのは最近では広まってきていますが、フロンターレは日本におけるはしりと言えるでしょう。

このドリルは2011年には東日本大震災の被害を受けた岩手県陸前高田市の小学生にも配布され話題となりました。

 

こういった活動の中で特筆すべきが西城秀樹さんとの交流です。

西城さんは川崎に住んでいた縁でまだ閑古鳥が鳴いていた2000年から毎年夏にスタジアムを訪れ、ハーフタイムにYMCAをサポーターと踊っていました。今の等々力のアットホームな雰囲気というのはこの時に決定づけられていきました。

体調を崩してからもこのハーフタイムショーには出演し、亡くなる前年の2017年までほぼ毎年続けられました。毎年毎年増えていく等々力のお客さんを見て、西城さんは何を思っていたのでしょうか。

 

この他にもSHISHAMOとの交流など例を挙げればキリがないのですが、本当に草の根活動とも言える地道な活動、そして誰もが面白がる奇抜な企画で、フロンターレは川崎をひとつにまとめ上げていったのです。

 

3.「シルバーコレクター」がつかんだJリーグ最強の座

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徐々にお客さんを増やしていき力をつけていったフロンターレですが、どうにもタイトルには恵まれませんでした。

2016年までJ1リーグ準優勝4回(1stステージ準優勝含む)、Jリーグカップ準優勝3回天皇杯準優勝1回と、素晴らしい成績は残すのですがあと一歩のところで及ばず、シルバーコレクターの称号がつけられてしまいます。

 

2017年、鬼木達が監督に就任しますが負傷者が続出し一時は9位まで順位を落とします。

それでも安定した成績を収め、最大7あった首位鹿島との勝ち点差は最終節前に2まで縮まりました。

 

迎えた最終節の大宮戦。開始1分で先制するとそのまま一気に押し切り、5-0の快勝

一方の鹿島が引き分けたため、得失点差で上回り大逆転で悲願のJ1リーグ初優勝を飾ります。

 

翌2018年も連覇、そして今年3回目の優勝をJリーグ史上最速で決めました。今やJリーグ最強クラブであることは疑念の余地がありません。

そんな川崎が見据える先は、やはりアジアチャンピオンズリーグ制覇でしょう。

 

当初川崎市民が見向きもしなかったフロンターレが、地元の小学生商店街、そして力士西城秀樹さん、そしてSHISHAMOをはじめとする川崎市民みんなを味方につけ、ついにアジアで戦える位置までくるなんてなんと夢のあるサクセスストーリーでしょう。

 

4.まとめ

今シーズン圧倒的な力を見せつけた川崎フロンターレですが、その発展の陰にはあまりに地味すぎる普及活動がありました。ここまでのクラブになった以上、等々力に閑古鳥が帰ってくることはないでしょう。

 

しかし戦いは終わったわけではありません。アジア、そして世界の頂点を取るその日まで、フロンターレは川崎と共に戦い続けるのです。

 

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