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日本一記念!東京ヤクルトスワローズの軌跡~しぶとく生き抜く下町球団~【コラムその54】

東京ヤクルトスワローズが2021年シーズン日本一に輝きました!おめでとうございます!

 

セリーグ、パリーグともにプロ野球史上まれにみる大激戦となる2021シーズン、ヤクルトは阪神を振り切りセリーグを制覇、そしてクライマックスシリーズでも巨人を圧倒し制覇。

そして日本シリーズ、同じく激戦を制してきたパリーグチャンピオンのオリックスバファローズとの大激戦を制し、見事20年ぶりの日本一に輝きました。

 

今回はそんな東京ヤクルトスワローズの70年にわたる歴史とその魅力を振り返ります。

1.激動の国鉄・サンケイ時代

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まずヤクルトの歴史を振り返る前に、球団名の変遷を見てみましょう。

国鉄スワローズ(1950年 - 1965年5月9日)
サンケイスワローズ(1965年5月10日 - 同年末)
サンケイアトムズ(1966年 - 1968年)
アトムズ(1969年)
ヤクルトアトムズ(1970年 - 1973年)
ヤクルトスワローズ(1974年 - 2005年)
東京ヤクルトスワローズ(2006年 - 現在)

いかがでしょうか。お隣の読売ジャイアンツが戦後全く名前が変わっていないのと比べると、なんと多いことか(笑)

それだけ大変な時代をくぐり抜けてきた球団、というわけですね。今回はサンケイ・国鉄時代ヤクルト時代に分けてご紹介します。

 

まず今のスワローズが誕生したのは1949年、国鉄スワローズとしてでした。

当時リーグ拡張によって球団が乱立しており、それに伴い国鉄野球部からも選手が引き抜かれる事態となっていました。

そこで、「それならうちもやってやろうがい!」という勢いで始まった球団、それが国鉄スワローズでした。なんちゅう場当たり的な…。

 

そんなわけで、スワローズという球団名は当時国鉄で最速だった特急「つばめ」に由来するものです。もし今だったら「のぞみ」だったかもしれませんね。

ちなみに源流となった国鉄野球部は今も社会人野球の強豪JR東日本野球部として活動しています。実はスワローズとは兄弟のような関係なのです。

 

そんな感じで始まったスワローズですが、参入が遅れたために選手の獲得もままならず、しばらくは苦難の時が続きます。

開幕から2年連続で勝率は3割台、以降も勝率が5割を超えたのは1961年だけで、あとは4位以下ばかりでした。

 

転機が訪れたのは1964年のこと。これまで後楽園球場をホームとしていたスワローズでしたが、そこから電車で数駅行ったところにある神宮球場をホームとすることになったのです。

しかし神宮球場と言えば今も昔の大学野球の聖地、プロ野球球団が使うなどもってのほかでした。当時は国会でも話題に上がるほどだいぶもめたようです。

そんなこんながあって、当時の名残で神宮球場は今でも大学野球が優先して使用するようになっています。

こちらの記事にも神宮球場の歴史をまとめています。

sportskansen.hatenablog.jp

 

その一方、スワローズの絶対的エースだった金田正一は監督との軋轢が生じ巨人へ移籍。国鉄もやる気を失い、国鉄からサンケイグループへと球団が売却されました。

球団名にもテコ入れがされ、当時フジテレビで人気だったアニメ「鉄腕アトム」に乗じて球団名も「サンケイアトムズ」に変更されました。

今だったら「ドラえもんズ」とか「ピカチュウズ」とか、そんな感じですかねぇ。子供には人気出るかもしれないですが。

 

しかしスワローズだろうとアトムズだろうと結局成績は上がらず、サンケイも手を引いてしまいます。1969年シーズンはただの「アトムズ」として活動し、2リーグ制以降では地域名も企業名もつかない唯一の例となりました。

 

そんな球団始まって20年間優勝どころか勝率5割も一度しかないお荷物球団の前に現れたのが、当時勢いに乗っていた飲料メーカー「ヤクルト」でした。

 

2.初優勝、そして黄金期へ…ヤクルト時代

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ヤクルトは今でこそ健康飲料としての地位を確立していますが、1968年に今のプラスチック容器でのヤクルトの販売を始めたものの、知らない人には「怪しい飲料」というイメージを持たれることは必至でした。

そのためプロ野球球団を獲得することはヤクルト自体のイメージアップにうってつけだったのです。

 

そんなわけでヤクルトアトムズとして再出発を切ったものの、結局4年間は成績を残せず、虫プロダクションの倒産に伴い球団名を「ヤクルトスワローズ」と変更します。

 

しかし1978年、ついに歓喜の時を迎えます。

前年には広岡監督のもと2度目の勝率5割台、そして初のリーグ2位にまで成績を押し上げたヤクルトは、このシーズン68勝46敗の成績を上げ見事セリーグ優勝。日本シリーズでも阪急を破り見事球団初の日本一に輝きます。

 

が、それも長くは続かず、10年以上最下位に5度沈むなどなんとも苦しい時期が続きます。

そんな折現れたのが、ヤクルト黄金期を形成することになる野村克也監督でした。

 

野村監督は「ID野球」を掲げ、選手には徹底的にデータを活用したプレーを叩きこみました。

その間育て上げられた選手は数知れず、球界一の捕手となった古田敦也をはじめ池山隆寛広沢克己、飯田哲也、川崎憲次郎、宮本慎也などなど名球会クラスの選手がゴロゴロいます。

その中には今シーズン日本一監督となった高津臣吾、そして東京オリンピックで金メダルを獲得した日本代表監督稲葉篤紀がおり、野村チルドレンは今もヤクルトのみならず日本野球界を支え続けています。

 

そんなこんなで1992年には2度目のセリーグ制覇を果たすと翌年にはセリーグ連覇。野村監督時代には4度の優勝3度の日本一に輝き、ヤクルト黄金期を築き上げました。

 

以降もたびたび最下位には沈んでしまうものの、2001年、2015年、2021年と10年に1度か2度くらいのペースで優勝しており、かつてのお荷物球団時代を考えるととても応援しがいのあるチームになったなあと感じます(笑)

 

3.スワローズの何が人を惹きつけるのか?~個性豊かなキャラクターたち~

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さて、スワローズの魅力について改めて考えてみましょう。

同じ東京には、長らく巨人という大きな大きなライバルがいます。プロ野球が始まって以来巨人が野球人気を引っ張ってきたというのは、例えアンチ巨人であっても否定のしようがありません(笑)

 

そんな巨人がいる東京でどうやってスワローズが生き残ってきたか?と考えた時に、やっぱり大きな武器になるのは下町らしい人情味あふれた球団の雰囲気だと思うのです。

そこで今回は、どういった人たちがそういったヤクルトの魅力を作り上げてきたのかを考えてみたいと思います。

 

・つば九郎

スワローズといえば思い浮かぶのはやっぱりマスコットのつば九郎でしょう。

1994年に誕生したつば九郎は、今や日本一有名なマスコットと言っても過言ではないほどの人気を得ています。

もちろんスワローズだけに燕をモチーフにしているはずなのですが、ずんぐりむっくりした見た目のせいで一部からはペンギンと言われていたり…。

 

そして何より、人気の一番の理由はその自由奔放なキャラクター性。

試合中にはダチョウ倶楽部の上島さんのようにくるりんぱを披露したり(一度も成功したことはない)、試合前にはフリップでひらがなを使いながらブラックジョークを飛ばしたり、神宮球場ではとにかく気ままに動き回っています。

 

更に毎年のように契約更改を行っており、現在は年俸2万8000円プラスヤクルト飲み放題の契約を結んでいます。

2012年にはFA宣言し、角界、忍者保存協会、FC東京など22団体からオファーを受け、宮本慎也からは出ていきたきゃ出てけと冷たくあしらわれながらもなんだかんだで残留。

そして神宮球場の外においても、スポーツ紙に競馬の予想を載せたり(何度も的中)、ドラマの主演を務めたり、新潟県燕市のPR隊鳥に任命されたり、もうとにかく好き勝手にやっています(笑)

 

なんともまあキャラクターの作り方がうまいですよね。うまくやらないとただスベってしまうので、バランス感覚がすごいんだと思います。中のおじさんの。

 

・岡田団長をはじめとする個性豊かなファン

スワローズと言えば、神宮球場できらきらと傘が光る光景を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。

そんな今の神宮球場の雰囲気を作り上げたのは、ヤクルトスワローズ応援団団長の岡田正泰さんです。

 

岡田団長はまさに「生粋の江戸っ子」といった感じで、豪傑で人情味あふれるアイデアマンでした。

まだヤクルトファンが少なかったころから応援をはじめ、人が多く見えるように、かつ誰でも持っているものとして傘による応援を導入。

さらに東京音頭を応援歌として使用し、そしてフライパンを鳴り物として使い神宮球場のライトスタンドを盛り上げました。

更には当時普及していなかったメガホンの代わりに工事用の三角コーンを持ち込んだり、大学生をスカウトしてトランペットの応援を始めたり、とにかくやることは豪快ながらヤクルトのみならずプロ野球の応援全体に影響を与えました。

 

そんな岡田団長は「ヤクルトおじさん」「オヤジ」として親しまれ、選手や監督からも大きな信頼を集めていました。

71歳で急逝してしまいますが、葬儀にはヤクルトの選手、ファン問わず集まり、出棺の際には東京音頭と傘の応援で見送られたと言います。

今のヤクルト球団の雰囲気を作り上げてきた、間違いなく大功労者と言える一人です。

 

そんなヤクルトの魅力に惹かれ、有名人にも多くのファンがいます。有名なところでは村上春樹、出川哲郎、さだまさし、安倍晋三、あだち充、磯山さやかなどなど…。

不思議と巨人よりも有名人で思いつく人が多いのは、それだけヤクルトの持つ独特の雰囲気に惹きつけられる人が多いのかもしれません。

 

・ミスタースワローズ「背番号1」の系譜

最後に紹介するのは、やっぱりスワローズの魅力的な選手たちです。

もちろん全員を紹介していたらきりがありませんので、今回はスワローズを代表する「背番号1」をご紹介します。

 

最初に背番号1をつけ1978年の優勝に貢献したのが、ミスタースワローズこと若松勉です。

小さな大打者と呼ばれた若松はNPB通算6000打席以上の中で打率1位、通算安打も2000を超え、背番号1を背負って戦い続けたスワローズの歴史を代表する選手の一人です。

彼の活躍から、背番号1=ミスタースワローズと認知されていきます。

 

次に背番号1を背負ったのが、ブンブン丸こと池山隆寛

野村監督のヤクルト黄金期を背番号1をつけて引っ張り、ショートという長距離砲が出にくいポジションながら5年連続30本塁打を放つなどまさにブンブン丸の名前にふさわしい活躍を見せました。

 

2000年代に入って背番号1をつけたのは岩村明憲。メジャーに挑戦するまでヤクルトを代表する選手として活躍し、こちらも3年連続3割30本を記録するなどその打棒をいかんなく発揮しました。

 

2010年代で初めて背番号1をつけたのは青木宣親。背番号1をつけたのは2年だけでしたが、2010年には209安打を放ち打率.358で球団記録を樹立するなど、ヤクルトのリードオフマンとして目覚ましい活躍を見せました。

日米通算安打は2500を超え、現在もなお球界を代表するバッターの一人です。

 

そして現在の背番号1は山田哲人。プロ野球史上初3度のトリプルスリーを達成し、さらに東京オリンピックで日本の金メダル獲得に貢献するなど、球界を代表する選手として君臨しています。

このように、ヤクルトにおける背番号1はチームを引っ張るミスタースワローズがつける特別な背番号となっています。次につけるのは村上か、奥川か、それとも…?

 

これ以外にもヤクルトには球史に残る記録を作ったり、あるいは特別な個性を持っていたり、本当に多くの魅力的な選手が集まっています。これだけの選手がどんどん生まれるヤクルトは見ていて面白い球団だなあとつくづく感じますね。

 

4.まとめ

以上、東京ヤクルトスワローズの歴史と魅力について紹介しました。

球団が始まってしばらくはとにかく結果が出せない時代がずっと続いていましたが、今ではいい感じの頻度で優勝するし、スター選手は定期的に生まれるし、何より神宮球場の雰囲気がいいし、本当に魅力的な球団だなあと思います。

 

言語化するのは難しいんですが、なんとも全体的に「ちょうどいい」感じの球団なんですよね(笑)

勝たなきゃいけないというプレッシャーもあんまりないし、でも時々優勝するし、つば九郎はゆるゆるだし、なんだか見ていて楽しい球団です。

 

今後神宮球場の建て替えという大きなイベントが待っていますが、それを乗り越えてもっともっと魅力あるチームになっていってほしいですね。

 

 

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