以前社会人野球の最高峰の戦い、都市対抗野球について紹介しました。
一般的には都市対抗野球で活躍した選手は、その後プロ野球のドラフト会議で指名されプロ入りを果たす、というのが大きな流れです。
しかし十分にプロ入りできる実力を持ちながら、アマチュア野球一筋の野球人生を貫いた選手がいます。
今回はそんな彼らの半生を紹介します。
1.ミスターアマ野球・杉浦正則
杉浦正則選手は1968年和歌山県生まれのピッチャー。
甲子園には出場できなかったものの、同志社大学に進学すると最優秀選手に選ばれリーグ優勝を果たすなど、23勝14敗防御率1.57の成績を上げ活躍します。
大学を卒業後、1991年に社会人野球の名門日本生命に入社。さらに翌年の1992年バルセロナオリンピックに出場し抑えとして活躍、銅メダル獲得に貢献します。
このようにアマチュア選手として名をはせた杉浦の元には、当然プロ野球界からの誘いも数多く舞い込んできました。
中には白紙の小切手を渡されて誘われたり、あるいは当時ニューヨークメッツの監督だったボビーバレンタインの誘いを受けたり、日米問わず様々にスカウトされました。
しかしながら杉浦はこれらの誘いに一切乗りませんでした。理由はただ一つ、「オリンピックに出たいから」。
当時オリンピックの野球競技には原則アマチュア選手しか出場しておらず、プロに進むことはオリンピック選手として引退することを意味していました。
事実バルセロナオリンピックには伊藤智仁や小久保裕紀といったその後プロでも活躍した選手が出場しましたが、次のアトランタオリンピックには出場していません。
オリンピックで日本代表として戦うことにやりがいを感じた杉浦には、プロ野球に進むことは意味のないことだったのです。
プロでも二けた勝てると言われた杉浦は、こうしてアマチュア選手として野球人生を貫き、都市対抗野球でも日本生命の2度の優勝に貢献するなど活躍しました。
2000年のシドニーオリンピックではいよいよプロ選手の出場が解禁となりましたが、その中でアマチュア選手ながら日本選手団の主将(野球だけでなく全選手の主将)を務めた杉浦の存在は異彩を放っていました。
しかし結局メダルを獲得することはならず、このシーズンをもって引退しました。
現在では「もし最初からプロ選手がオリンピックに解禁されていたら、間違いなくプロを選んでいた」と話しています。
もし杉浦が生まれるのが10年遅かったら、あるいはプロ選手の解禁がもっと早かったら、日本の野球界は違う歴史を歩んでいたのかもしれません。
2.社会人最強打者・西郷泰之
西郷泰之選手は1972年東京生まれ。
1991年に三菱自動車川崎に入社するとすぐにレギュラーを獲得。1996年には杉浦と同様アトランタオリンピックに出場し、松中信彦、井口資仁、今岡誠、谷佳知、そして福留孝介といったそうそうたるメンバーに交じって銀メダルを獲得します。
しかしそれらの選手が次々とプロで指名されていく中、なぜか西郷の名前は呼ばれませんでした。
プロ入りと一言で言っても各球団の台所事情によるところが大きく、運やタイミングにも大きく左右されてしまうというのが実情です。
20代の後半になると、次第にプロ入りに対するあきらめの気持ちも芽生えてきました。
そんな折、ピッチングマシーンの球が頭部に直撃し頭がい骨骨折、数カ月の入院を余儀なくされる大けがを負います。
野球も出来ず引退も頭をよぎる中、自分が野球が好きであることに気付き「社会人野球をやりぬこう」と改めて決意しました。
その後は社会人屈指の長距離砲として才能が開花。都市対抗野球の最多本塁打タイとなる14本を放ち、途中三菱自動車の不祥事でHondaに移籍しながらも6度の優勝を経験するなど優勝請負人の異名がつきました。
この状態でプロ入りしていたら、もしかしたら…と想像を掻き立てられます。
引退後はHondaや東海大学で指導を努めましたが、東海大学での部員の不祥事の責任を取って辞任してから、音沙汰がありません…。どこかで野球に関われているといいのですが。
3.ドラ1候補がそのまま引退へ・志村亮
志村亮は1966年神奈川県生まれ。
桐蔭学園時代には2度の甲子園出場を果たし、3年夏の3回戦鹿児島商工戦で敗れたものの2失点完投し一躍注目されます。
卒業後は名門中の名門慶応義塾大学に進学。
5試合連続完封、53イニング連続無失点といった記録を打ち立て、通算31勝17敗防御率1.82と大車輪の活躍を見せます。53イニング連続無失点の記録は今なお破られていません。
当然プロからも大注目され、二けた勝利を挙げられるのではと言われドラフト1位候補に挙がるほどでした。
しかし当の本人はプロに進む気はさらさらありませんでした。大学4年の最後の試合では、「もう投げないから」という理由でクールダウンのキャッチボールを断るほど。
実は大学に入学した時点で引退のことを考えており、「どうせいつか野球をやめなければいけないのだから、大学でやり切ってスパッとやめてしまおう」と決意したとのこと。
大学野球でこれ以上ない実績を上げた志村には、もう野球を続ける意味は残っていなかったのです。
結局ドラフトでは1球団も指名せず、社会人は野球部のない三井不動産に入社しました。「幻のドラフト1位」と呼ばれた志村さんは、現在でもサラリーマンとして活躍しています。
その一方で野球を断ち切ったわけではなく趣味として続けており、クラブチームで全国大会に出場し優勝を果たしたり、また少年野球チームの指導を行っています。
六大学野球の中継では解説に呼ばれるなど、いまだに大学野球ファンの間では伝説となっています。
4.まとめ
以上、プロに匹敵するほどの実力を持ちながらもアマチュア野球選手を貫いた3選手を紹介しました。
3人ともプロに進まなかった理由はバラバラですが、3人に共通しているのが「プロに進まなかったことを後悔したことはない」ということでした。
プロに進まないというのはそれだけのお金と名誉を得られないということにつながるわけで大変な決断だったと思いますが、しかしそれだけ考え抜いた決断であれば後年になっても後悔することはないのでしょう。
こういった特殊な人生を歩んでいる人たちだからこそ、学ぶべきことは大きいのかもしれませんね。
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