戦後日本を指揮し、GHQの最高司令官として現代日本に多大な影響を及ぼした人物、ダグラス・マッカーサー。
そんなマッカーサーは、日本のスポーツ界にも大きな足跡を残したと言われています。
今回はマッカーサーをスポーツの観点から見ていきたいと思います。
1.マッカーサーってどんな人?

まず、マッカーサーが何をした人なのか?について。
とはいえここで全部紹介するのは無理なので簡単に。
生まれは1880年のこと、1903年に陸軍の学校を首席で卒業しました。こういう年代を見ると歴史上の人物なのを実感しますね。
第一次大戦にも参戦し、最年少でアメリカ軍参謀総長にまで上り詰めた、ゴリゴリのエリート中のエリートです。
エリートでもなきゃ日本を統治なんてできませんが…。
フィリピン軍の創設にもかかわり大日本帝国からフィリピンを奪還するなどの実績を上げ、1945年から1950年までGHQの最高司令官として日本を占領しました。
この時年齢的には60~70歳くらいだったんですね。昭和天皇より21歳上だったんだなあ…。
日本国憲法の制定に関わるなど日本という国家の仕組み作りに大きな影響を与えましたが、アメリカ大統領選挙への出馬には支援が集まらず失敗。
1964年に84歳で亡くなりました。戦後日本復興の象徴ともいえる東京オリンピックを見ることはかないませんでした。
2.マッカーサーとスポーツ

そんなマッカーサーですが、士官学校時代はスポーツも好んでいたようです。
その中でも特に野球が好きで、決してうまくはなかったものの頭を使った積極果敢なプレーを得意としていました。
周囲からはそのプレーぶりから「不退転のダグ」と呼ばれていたようです。
しかし野球に熱中しすぎたため途中できっぱりと止め、その後は勉強に打ち込み首席で卒業しました。
なんだかデスノートの夜神月みたい…。
また、意外にも1928年のアムステルダムオリンピックではアメリカ選手団の団長をしていたこともあります。
当時は選手ではなく軍人が団長を務めるのが一般的だったのでしょうか?
三段跳びで金メダルを獲得した織田幹雄が、当時のアメリカ選手団団長が終戦後に占領軍の最高司令官になったと聞いて驚いたという話もあります。
そりゃそうでしょうねえ。
3.日本のスポーツとマッカーサー

そんなマッカーサーですが、日本の国際スポーツ界への復帰にも影響を与えていたようです。
調べている中で、このような論文を見つけました。
https://www.ssf.or.jp/Portals/0/resources/encourage/grant/pdf/2018/2018rs_17.pdf
この論文中では以下の三点が述べられています。
①1948年IOCロンドン総会に日本人を出席させるための重要な人物と位置付けられていた。
②1951年IOCコペンハーゲン総会時に日本人の出席者が不能になった際に本代表として東龍太郎を推薦していた。
③1952年オリンピック大会に日本の参加が可能となっている世界情勢になることを願っていると各方面のスポーツ関係者に伝えていた。
どうやら、マッカーサーは日本の復興やその世界へのアピールにおいてスポーツが重要な役割を果たすと考えていたようです。
また1948年には池田政三という実業家がマッカーサーの許可を受け、マッカーサー元帥杯スポーツ競技会という大会を開きました。
当時の日本ではGHQの指示により行進や国旗の掲揚など戦時中を想起させる行為は禁止されていましたが、この大会では特別にアメリカ軍の軍楽隊が演奏するなど華々しい開会式となりました。
第2回では特別に皇居を使って大会が行われるなど盛り上がりを見せたようですが、マッカーサーが更迭され日本での人気が終息すると大会名からマッカーサーの名は外されることに。
ただし、現在行われている全日本都市対抗テニス大会はこのマッカーサー元帥杯スポーツ競技会の流れを汲んだものと言われています。
こんなところにもマッカーサーの足跡が残っているんですね。
4.まとめ
以上、マッカーサーとスポーツについて調べてみました。
ものすごくスポーツ振興に力を入れていたというわけではないようですが、本人自身も野球に打ち込んでいたこともありますし、日本のスポーツ界への影響も決して小さいものではなかったようです。
やっぱりスポーツの力はそれだけ大きいし、スポーツと政治ってそれだけ切り離せないものなんだなあと改めて感じますね…。
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