世界一のサッカー王国と言えば、もちろんブラジルですね。ワールドカップでも5回の最多優勝回数を誇っています。
そしてブラジルで最も有名な選手として真っ先に名前が挙がるのが、やはりペレではないでしょうか。
3度のワールドカップ制覇に貢献し、ブラジル代表として77得点を記録、現在も世界最高のフットボーラーとして名前が挙がる選手です。
しかしブラジルでは、ペレと並んで愛されるサッカー選手がいます。それが「ガリンシャ」という選手です。
日本、そして世界においてもペレに比べるとガリンシャの知名度は決して高くありません。
しかしブラジル国内ではペレとどちらが最高のプレイヤーだったかが議論になるほどです。
そんなガリンシャの生涯もまた、とても波乱万丈で面白いものなのです。
今回は、そんなブラジルの知られざる天才であるガリンシャを紹介します。
1.障害が味方したサッカー人生の始まり
ガリンシャは1933年生まれ。6歳の時にポリオに見舞われますが、医者にかかるお金がなかったため若い医者が無料で治療しました。逆ブラックジャックというか…。
その影響で背骨はS字に歪曲し足は同じ方向にねじ曲がり、左右の足の長さが違う状態となってしまいました。さらに軽度の知的障害まで背負うことに。
しかしこれがのちのサッカー人生に大きく影響することになるとは、この時はまだ知る由もありませんでした。
ガリンシャは自然豊かな環境で暮らし伸び伸びと育っていきましたが、特にサッカーにおいては特異な才能を発揮し始めていました。
足が歪曲している影響で予測のつかない動きを生み出し、街で一番のドリブルの名手となったのです。
しかし本人はサッカーに固執しておらず、1950年に自国で行われたワールドカップの決勝は釣りに行っていて見ていないというほど興味がありませんでした。
またビッグクラブの入団テストを受けるように勧められてもスパイクを忘れていったり、帰りの電車に間に合わないという理由で帰ってしまったりしていました。
それでも、サッカー王国ブラジルが彼の特異な才能を放っておくわけがありませんでした。
2.サッカー選手としての輝き
19歳の時、リオデジャネイロのクラブであるボタフォゴの入団テストに参加しました。
テストではブラジル代表のディフェンダーであったニウトン・サントスが相手になりましたが、トリッキーなドリブルで何度も抜いていきました。
これを見たサントスは彼の才能を恐れ、「すぐに契約してくれ」と直談判。こうしてガリンシャのサッカー選手としての人生が始まります。
デビュー戦では右ウィングとして出場すると、いきなりハットトリックを達成。レギュラーを獲得すると、クラブをタイトル獲得へ導く働きを見せました。
ガリンシャは右へ左へ相手をほんろうするドリブルで、例えボールに触らなくても相手は体勢を崩してしまったと言います。
相手も二重三重でマークしますが、まるで歯が立たなかったようです。
ブラジル代表には21歳の時に初選出。24歳でワールドカップに召集されます。
しかし軽度の知的障害の影響もあり監督は起用を躊躇、大会序盤では控えに回ります。
ところが、ここで手を差し伸べたのが先ほど彼の才能を恐れたサントスでした。サントスが監督に進言したことで、3戦目からいよいよワールドカップ出場を果たします。
すると同じく出場していたペレとのコンビで猛攻を仕掛け、勝利に貢献しました。
この勢いで決勝まで勝ち上がると、ここでもガリンシャは2アシストを記録、ブラジルはワールドカップ初優勝を果たします。
タイム誌ではガリンシャの活躍を大きく報道し、あるものは芸術家に例え、あるものは作曲家に例えるなどある種崇拝のような人気を得ました。
1962年のワールドカップにも出場するとケガや高熱などに見舞われながらも活躍。
準決勝では相手の尻を蹴ってしまい退場処分を受けてしまいますが、関係者が対戦相手のチリの大統領も巻き込んで処分を撤回させるほど、その存在は大きなものとなっていました。やることがめちゃくちゃすぎるよ…。
決勝も3‐1で勝利し連覇に貢献するとともに、得点王にも輝きました。
あまりの活躍ぶりに「たった一人で優勝に導いた」、「彼はいったい、何処の惑星からやってきたのだろう」などと評されたと言います。
ペレとのコンビは世界最高のものであり、事実二人がそろって出場した試合は無敗でした。
評論家も「ペレはアスリート、ガリンシャはアーティストだった」と評し、ペレも「ガリンシャがいなければ、私はワールドカップで3度優勝することは出来なかっただろう」と述べています。
ブラジル国内ではペレとどちらが最高の選手だったかという議論があり、ペレはプロフェッショナルであったのに対しガリンシャは自分の楽しみのためにプレーした、ペレは王様として尊敬されているのに対しガリンシャは民衆の愛情の対象だった、などと言われています。
ガリンシャはそれだけ愛される選手だったのですね。
3.自由奔放な人生
ガリンシャは最高の選手と言われながらも、とても純粋で愛されるキャラクターでした。
エピソードとしては、
・スウェーデンで購入したラジオをチームメイトに「スウェーデン語しか流れないラジオを買ってどうする」と言われた冗談を真に受け、捨ててしまった(その後チームメイトがそのラジオを使用)
・対戦相手のディフェンダーを覚えられず全員「ジョアン」と呼んでいた(日本語で言えば太郎?)
・監督が戦術を説明している横で漫画を読みふけり、呆れた監督が「好きなようにしなさい」といったところ、本当に好きなようにプレーしてブラジルを勝利に導いた
などがあります。真偽のほどは不明ですが、それだけ自由な性格だったというわけですね。
4.引退と晩年
ドリブラーとして世界最高の評価をされたガリンシャですが、足が歪曲している影響で晩年にはひざに問題を抱えるようになります。
しかしひざを手術すると以前のようなドリブルができなくなると考えたガリンシャは、これを拒否します。
するとますますひざの状態が悪くなり、やむなく手術を行います。しかし予想通り以前のようなプレーは出来なくなり、1972年に引退します。
順風満帆だったサッカー人生と裏腹に、私生活は過酷を極めていました。
18歳の時に結婚していますが、それ以外の女性とも浮気を繰り返し子供をもうけるなど荒れていたようです。
1969年には離婚しますが養育費で経済的に破綻、さらに再婚したサンバ歌手のエルザの母を交通事故に巻き込み死に至らしめてしまい、ガリンシャはふさぎ込むようになってしまいます。
1973年にはガリンシャを元気づけるための試合が行われ、39歳となっていたガリンシャはペレなどとともに試合に出場しました。
試合の収益のうち100万クルゼイロが贈られ、この資金でレストランの開業にまで漕ぎ着けます。
か、友人にツケをつけすぎたために瞬く間に倒産してしまいました。いろいろ付け込まれちゃったんだろうなあ、と察してしまいます…。
ますます荒れてしまったガリンシャは酒におぼれ、妻のエルザに暴力をふるい子供ともども逃げられてしまいます。
そして1983年に突然体調を崩すと、49歳の若さで急逝してしまいました。その頃すでに若き日の面影はなく、医者もガリンシャ本人だと気付かなかったといいます。
遺体はワールドカップ優勝パレードにならって消防車で故郷へ運ばれ、埋葬されました。葬儀にはサントスをはじめ関係者、ファンなど8000人が集まり別れを惜しみました。
5.まとめ
以上、ガリンシャの生涯について紹介しました。
幼いころに障害を負ったことで苦しみもしましたが、その一方でサッカーの才能に目覚めブラジル国民に愛される選手にもなりました。
人生山あり谷あり、何が起きるか全くわからないものですね…。今後もこのような知られざる天才を探していきたいと思います。
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