スポーツ、という言葉の語源をご存じでしょうか?
これは以前にも記事で取り上げているのですが、ラテン語のdeportareという単語で、娯楽、息抜き、生活の役に立たないものという意味があります。
しかしスポーツはその注目の高さゆえ、残念ながら政治目的で利用されたり、世界史の舞台に登場することもしばしば。
このシリーズではそれらを私の分かる範囲でご紹介していきます。未熟ゆえ不正確であったり情報の不足があるかもしれませんが、なにとぞご容赦ください。
今回は、五輪史上最悪の事件ともいわれる、ミュンヘンオリンピック事件をご紹介します。
1.ミュンヘンオリンピック
まず、ミュンヘンオリンピックについて簡単にご紹介します。
ミュンヘンオリンピックは1972年に西ドイツ・ミュンヘンで行われたオリンピックです。
ドイツで行われたオリンピックとしては前回紹介したベルリンオリンピックに続き2回目となりました。ドイツで行われるオリンピックはどうもいわくつきになりますね…。
日本においては、特に体操競技での活躍が目立ち、24個中16個ものメダルを獲得。ほかにも男子バレーボールなどで金メダルを獲得し、4位タイとなる13個の金メダルを獲得しました。
そんな日本選手団も活躍を見せたミュンヘンオリンピックで、事件は起こりました。
2.ミュンヘンオリンピック事件
事件が起こったのはオリンピックも終盤に差し掛かった1972年9月5日の朝4時過ぎでした。
選手村にいた警備員は明け方、リュックを背負ってフェンスを乗り越える人物を確認しましたが、当初は選手が戻ってきただけだろうと考え気にも留めませんでした。
それがパレスチナのテロリスト「黒い九月」のメンバーだったとは知る由もなく…。
選手村に侵入した黒い九月のメンバー8人は、イスラエル選手団宿舎に突入。選手とコーチの2人を殺害すると、9人を人質にとって立てこもりました。
朝5時半になって警備員が遺体に気付き事件が発覚。犯人側はイスラエルに収監されるパレスチナ人や日本赤軍など234人を午前9時までに解放するよう要求しました。
その後犯人との交渉により期限を0時まで延長させますが、イスラエル側はこの要求を拒否し国防軍の派遣を提案。しかし西ドイツでは外国軍の活動を制限していたため西ドイツ側もこれを拒否するなど難航します。
それでも西ドイツ当局はなんとかごまかして期限を午後5時まで延長、そしてオリンピック関係者を人質の確認として内部に潜入させることに成功。
内部では犯人を5人目撃したことからメンバーの数を5人と断定(本当は8人)、突入作戦を準備しますが、テレビやラジオを通してその様子が犯人にばれてしまい中止となります。今だったらSNSがあるから情報統制がもっと大変ですよね…。
その後再度交渉が行われ、犯人グループはエジプトのカイロへ脱出することを要求し、当局もこれを受諾。まずバスで草地へ移動しそこからヘリで空港へ、そして飛行機で脱出するという計画でした。
しかし、当局は移動中に犯人グループの狙撃を行い人質の確保を狙っていました。
午後10時半、いよいよ計画が実行に移されます。犯人と人質を乗せたヘリが空軍基地に到着すると、まず犯人側のリーダーと副リーダーが確認のために用意された飛行機に乗り込みました。
しかし中に入ってみるとなぜか誰もいません。不審に思った二人はヘリへと逃げ帰りますが、滑走路上の狙撃手が発砲したため銃撃戦が開始。
現場にいた警官隊は装備が不十分であったため応援部隊を待ちますが、到着したときには時すでに遅し。犯人の一人が手りゅう弾で自爆し、人質9名全員と警官1人、そして犯人の8人のうち5人が死亡する大事件となりました。
ただし残りの3人は逃亡に成功し、犯人の確保にも、人質の救出にも失敗してしまいました。
なぜ飛行機内に誰もいなかったかについてですが、元々待ち伏せ作戦を敷いていたはずの警察側の装備が犯人に対して不十分で、命令に背き全員が撤退。
これをはじめとして警察側の準備のなさ、経験の不足などが人質救出の失敗に至った原因だと考えられています(西ドイツ側が平和主義のためテロに対抗する装備や訓練を十分にしていなかったのが一因とも)。
イスラエルではオリンピック中止を求めるデモも行われましたが、IOC会長が反ユダヤ思想を持っていたこともあり大会は続行(おいおい…)。
翌日の9月6日にはスタジアムに8万人を集めて追悼式が行われたものの、その日の午後には競技が再開され、とうとう大会は最後まで行われたのでした。
3.その後…
この事件に対し、イスラエル側の怒りは頂点に達します(そりゃそうだ)。
報復としてパレスチナ解放機構の基地10か所を空爆し200名近くの死者を出し、さらに「神の怒り作戦」と題して黒い九月メンバーの暗殺計画を実行します。
その結果、イタリアやフランス、キプロスなど世界各地で暗殺計画が実行される一方で、黒い九月も反撃しイスラエル側もジャーナリストや工作員などが殺害されました。
このように水面下での殺し合いに発展しますが、とうとう人違いで無関係の一般人が殺される事件が起きこの計画が明るみに出ます。
結局、1979年にオリンピック事件の首謀者とされるアリ・ハッサン・サラメが殺害されるまで、ヨーロッパ各国はイスラエル・パレスチナの争いに恐怖することとなったのでした。
あの時、西ドイツ側がまともに対応できていればこんなことにはならなかったのに…。
4.まとめ
2020東京オリンピックにおいては、開会式でこのミュンヘンオリンピックで殺害されたイスラエルの選手・コーチに対して初めて黙とうがささげられ話題となりました。
逆に言えば、それまでIOC側は何もしてこなかった、ということですね…。
平和の祭典オリンピックで起きた史上最悪の事件、ミュンヘンオリンピック事件ですが、その後はもちろん選手村での警備も強化されこれほどまでのテロ事件は発生していません。
とはいえ、オリンピックはもちろん世界からの注目を集める場ですし、こういったテロ事件の標的にまたいつならないとも限りません。まずは各国こういったテロ対策には十分に力を入れてほしいものです。
(2020東京オリンピックが標的にならずまずはよかったなあとも思います)
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