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プロ野球になれなかった幻のプロ野球・国民リーグとは?【コラムその132】

日本において野球と言えば、NPB(日本野球機構)、いわゆるセントラルリーグ、パシフィックリーグのことを思い浮かべる人が大多数でしょう。

 

しかし黎明期には、もう一つのプロ野球リーグがあったことをご存じでしょうか。

その名を国民野球連盟、通称国民リーグと言います。ただ残念ながら、今ではその存在はほとんど知られていません。

 

今回は、そんな日本に存在した幻のプロ野球をご紹介します。

1.プロ野球2リーグ化構想

第二次大戦後の日本プロ野球(日本野球連盟)は1リーグ8球団制でした。そこで、アメリカのメジャーリーグにならうため2リーグ化構想が持ち上がりました。

 

ただ、連盟側は当面8球団制を維持したいとして、新規参入球団の受け入れをしていませんでした。

現在も16球団構想がありますがなかなか実現性を帯びないところを見ると、当時も同じような状況だったのではないかと推察できます。

 

更に当初、プロ野球は「学生の遊びでお金を儲けている」として蔑視される風潮があり、そういう意味でもリーグの拡大は難しいものでした。

しかし人気が出て黒字球団が増えるにつれ、新規参入を希望する企業や選手が続出し始めます。

 

それでも日本野球連盟は受け入れを認めなかったため、新規参入を希望する球団があぶれる状態になりました。

その中の一人、宇高産業の宇高勲をきっかけに新リーグ国民野球連盟が動き出します。

 

2.国民野球連盟・国民リーグ設立へ

宇高は新球団結成を思い立つとさっそく札束攻勢に乗り出し、巨人やホークスなどから選手を引き抜きにかかります。

 

前述のようにプロ野球参入は拒否されてしまいますが、当時のプロ野球会長だった鈴木龍二に新リーグを作ってはどうかと提案されます。

これに乗った宇高は、一人で新リーグを立ち上げることになりました。すごい行動力です。

 

宇高は全国各地に赴き、加入してくれる球団を探し回りました。

その結果、広島で結城ブレーブス、大阪で唐崎クラウン、千葉で大塚アスレチックスが参加。自らも兵庫県尼崎市を本拠地として宇高レッドソックスを立ち上げます。

球団名に個人の名前が入っているのが今の常識では考えられず何とも面白いですね。

 

こうして1947年3月29日、後楽園球場にて4球団の「国民リーグ」が開幕します。

 

3.わずか1年での解散、そしてプロ野球2リーグ制へ

何とか開幕を迎えた国民リーグでしたが、その船出は決して順風満帆とは言えないものでした。

まず審判が3人しかいなかったため、試合は2試合ずつ、4チームが合同で行うしかありませんでした。

 

更に日本野球連盟は国民リーグに関与しないどころか、フランチャイズ球場からの締め出しを行いました。

そのため後楽園球場や甲子園は空いている時だけしか使用できず、基本的には地方巡業が主となってしまいました。

 

追い打ちをかけるように、プロ野球を道楽と見ていた国税局から不条理な課税を受け、興行としてもうまくいっていなかったことから運営はすぐさま行き詰ってしまいました。

 

最後にとどめを刺したのは、新リーグ立ち上げを提案したはずの鈴木龍二でした。

鈴木は国民リーグ所属の選手を引き抜き、リーグを潰しにかかりました。いわく、「目ざわりだった」「つぶさなければいけないと思った」とのことです。

自分で新リーグ立ち上げを提案しておいてなんと無責任な…。

 

こんな状況ではうまくいくわけもなく、1948年2月23日をもってリーグは解散に追い込まれました。

結果的には丸一年すら持ちませんでした。

 

しかしこれを契機としたプロ野球への新規参入の流れを止めることはできず、1949年にはプロ野球再編問題が勃発。

紆余曲折の末、セントラルリーグ・パシフィックリーグの2リーグ制に移行します。

現在まで続く2リーグ制の流れを作ったのは、幻のプロ野球・国民リーグだった…のです。

 

4.まとめ

現在ではほぼ知られることのない国民リーグですが、創設者の宇高自身もその後国民リーグ時代の人脈を生かして阪急ブレーブスや西鉄ライオンズのスカウトとして活躍。

リーグ解散後もプロ野球で選手やコーチ、そして経営に加わった関係者もいるなど、プロ野球の発展に寄与しました。

 

わずか1年だけのリーグでしたが、その功績は意外と小さくなかった…のかもしれません。

 

 

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