プロ野球を初めてみた人がおそらく感じるであろう疑問。
それは、「2リーグあるのになんで東西で分けていないの?」でしょう。
東にあるのは北海道日本ハム、東北楽天、埼玉西武、千葉ロッテ、読売、東京ヤクルト、横浜DeNA。
西にあるのは中日、阪神、オリックス、広島、福岡ソフトバンク。
二軍がイースタン、ウエスタンで分かれているように、東西の2リーグで分ければ移動も楽になるし大変効率的です。
しかし日本のプロ野球は読売、東京ヤクルト、横浜DeNA、中日、阪神、広島のセリーグ、
そして北海道日本ハム、東北楽天、埼玉西武、千葉ロッテ、オリックス、福岡ソフトバンクのパリーグに分かれています。
セリーグはともかく、パリーグは北海道から福岡までチームが分散しており、飛行機で移動するにしても大変移動の負担が大きいです。
なぜ、このような非効率的な分かれ方をしているのでしょうか?
それは、70年前から続く因縁が原因なのです。
そこで今回は、なぜプロ野球がセパで分かれているのか解説したいと思います。
1.プロ野球一リーグ時代
日本においてプロ野球が始まったのは1936年のこと。
日本で3番目に生まれたプロ野球球団の東京巨人軍(1番目は日本運動協会、2番目は天勝野球団、ともに消滅)をはじめ、
大阪タイガース、名古屋軍、東京セネタース、阪急軍、大東京軍、名古屋金鯱軍の7球団で始まりました。
とはいえ当時は大学野球全盛期、なかなかプロ野球は盛り上がらなかったようです。
大学野球については下記の記事で。
ちなみに初代三冠王は1938年に中島治康という選手が獲得しているのですが、その打撃成績は打率.361、本塁打10、打点38とタイトルホルダーとして今では考えられない数字でした。
さらに初年度である1936年の本塁打王はたったの2本でした。
こういった成績を見ても、今とは野球の質が全く違ったことが想像できます。
プロ野球はその後球団の分裂、合併、新規参入を繰り返し、1リーグ8球団で推移していきました。
そんな中で生じたのが、プロ野球再編問題でした。
2.1949年プロ野球再編問題
戦争も終わった1945年、プロ野球はさっそく活動を開始しました。
当時プロ野球は「遊び」でお金を稼ぐ仕事と見なされていて、人々の軽蔑の対象となっていました。
今でいうパチプロとか、プロゲーマーとか、そういう感覚でしょうかね?
プロゲーマーはだいぶ認知も進んできましたが。
しかしGHQが娯楽を推進したこと、他に大きな娯楽もなかったこともあって、プロ野球の人気は上昇していきました。
次第に黒字球団が増えていき、プロ野球は「稼げる事業」として注目を集め始めたのです。
そうなると、もちろん新規参入を望む企業も続出するようになりました。
そんな中読売ジャイアンツ初代オーナーである正力松太郎は、「リーグを拡大してゆくゆくは2リーグ12球団に」との構想を示しました。
その中には、読売新聞のライバルである毎日新聞も含まれていました(のちの毎日オリオンズ)。
そこで自然と発生したのが、「既得権益を守りたい球団」でした。
その意見としては「せっかくここまでプロ野球を育ててきたのに、ぽっと出の球団に利益をとられてはたまらない」、
「観客のばらつきが起きてしまってはプロ野球人気の低下を招く」というもの。
当時正力と読売新聞は複雑な対立構造になっており、正力の意見とは対照的に読売は保守派の先鋒でした。
これに中日、太陽ロビンスも同調しました。
一方で当時読売新聞が大阪で販売されていなかったことから、毎日新聞を利用することで主に関西方面に向けてプロ野球の持つ宣伝効果を期待する声も生まれました。
これに同調したのが阪急、大映、南海、大阪タイガース、東急の5球団。
単純に巨人中心主義に対する反発という側面もあったようです。
更に新規参入を望む企業はこれだけではありませんでした。
毎日新聞の他、近畿日本鉄道、京都新聞、熊谷組、日本国有鉄道、松竹、大洋漁業、名古屋鉄道、西日本鉄道、西日本新聞、西武鉄道、中国新聞、星野組、リッカーミシン、小田急電鉄が相次いで参入を希望。
お、多すぎる…。
こういった状況も重なり対立は激化。
新規参入を許したくない3球団と、新規参入を推進したい5球団で分裂の危機が訪れます。
多数派となる5球団は多数決での強行突破を図りますが、それでもうまくいかなかったため2リーグ分裂へと舵を切ることになりました。
こうして生まれたのが、今に至るパシフィックリーグでした。
この名前には、国際的な開かれたリーグに発展したいという願いが込められています。
一方で、新規参入を拒んだ側が結成したのがセントラルリーグ。
こちらはプロ野球の中心であることを自負してつけられた名前です。
実は名前からしてバチバチ対立関係にあったのです。
ところで、初代パリーグは阪急、南海、東急、大映に新規参入の毎日、西鉄、近鉄の7球団で始まりました。
あれ?一球団足りない名前がありますね?
そう、阪神は当社の意向とは裏腹にセリーグに参加したのです。
初代セリーグは読売、中日、松竹に阪神、そして新球団の大洋、広島、西日本パイレーツの7球団で始まりました。
って、結局こっちも新球団が加入してるのがツッコミどころ満載ですね…。さすがに4球団のリーグは盛り上がりに欠けると考えたのでしょうか。
さて、なぜ阪神は突然反旗を翻してセリーグに参加したのでしょうか。
これには諸説ありますが、有力なのは「巨人阪神の看板試合を失いたくない」というものです。
つまり阪神は、毎日新聞には参入して欲しいけど、巨人との試合は継続したい、言葉には出さなくとも実は最初からずっとそういう複雑な立場でいたのです。
結果的に阪急、南海、近鉄が球団経営から手を引いてしまったことを考えると、多少行儀は悪くとも英断ではあったのかもしれません…。
3.中央のセ、中央から外れたパ
こうして分裂したセリーグとパリーグですが、互いに選手を引き抜き合ったり、違うリーグ間で球団の吸収合併を繰り返したり、バチバチの雰囲気で大きな遺恨を残すことになりました。
2リーグ移行後は対抗意識からか人気も高まり、セリーグの巨人阪神に対してパリーグは南海西鉄が人気を博し観客動員数は互角でした。
しかし読売に対抗するはずの毎日が撤退、さらに八百長の黒い霧事件、
そして巨人戦がテレビで全国中継されたのに対しパリーグは中継がなかったり、セパの格差は徐々に開いていきます。
パリーグも生き残りのため恥を忍んで再度1リーグ制への移行を希望するなどしましたが、前述の経緯によりセリーグ側は断固拒否。
そんなこんながあって2004年のプロ野球再編問題へとつながっていくのですが、それはまた別のお話。
4.まとめ
以上、プロ野球がなぜセパに分かれたのかでした。
分裂したのは70年も前のことなので、今のプロ野球ファンでこの経緯を知っている人はかなり少ないと思います。
それでもパリーグは何となく団結感があったり、それに対してセリーグはまとまりが無かったり、なんだかんだで雰囲気が今に至るまで残っているのは面白い現象です。
セパ交流戦も行われるようになるなど両リーグの垣根はだいぶ低くなっていますが、セパの意識は未だに強く残っていますし、1リーグに合併することは今後ないでしょう。
そもそもパリーグの人気も高まってきて、合併するメリットもあまりないですしね。
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