10月26日、いよいよプロ野球ドラフト会議が行われます。
選手にとっても、チームにとっても、ファンにとってもドキドキの瞬間です。
あの注目選手はどのチームが取るのか?
あのチームは宣言通りあの選手を指名するのか?
情報が出てこないあのチームはどの選手を指名するのか?
既に駆け引きはスポーツ紙の紙面上で始まっているのです。そしてそれぞれの命運を左右するくじもたったの紙っぺら一枚。
人生を左右するにはあまりに儚く、あまりに無情なドラフト会議。
今回はそんなドラフト会議の観点から、レジェンド選手たちがどのようにプロ野球選手になったのかをまとめてみました。
1.ドラフト会議とは?
ドラフト会議が世界で初めて行われたのは、1936年のNFLだそうです。意外と歴史が長い。
ドラフト会議が行われているのは主にアメリカ、日本、韓国であり、ヨーロッパにおいてはごく限定的です。
というのも契約の自由や独占禁止法などの法律に抵触するからなんですね。そのため自由競争の下で選手の獲得が行われています。日本においても野球以外はドラフト会議を行っていませんね。
そんなドラフト会議ですが、日本で初めて行われたのは1965年のことでした。そのたった3年後には、山本浩二、田淵幸一、星野仙一、山田久志、福本豊、門田博光らが同時に指名される、後年「空前絶後の大豊作」と呼ばれる大豊作年が訪れます。
こんなことが起きるのもドラフトの面白さです。
さて、日本においては当たり前になっている交渉権のくじ引きですが、ドラフトの本場アメリカでは行われておりません。
くじ引きを一切しないわけではないのですが、それは指名順位に対するくじ引き(八百長や敗退行為を防ぐため)であって、選手の交渉権のくじ引きではありません。
あの独特の緊迫感というのは日本プロ野球独自のものなのですね。そのおかげと言ってはなんですが、地上波での中継も行われますし、実にテレビ映えします。
それによって経済が回るわけですから、ある意味ではプロ野球選手としての最初の仕事、と言えるのかもしれません。
2.イチロー(1991年オリックスドラフト4位)
あの言わずと知れたスーパースターイチローですが、ドラフトの順位は4位と決して高いものではありませんでした。
イチローは1973年愛知県出身。地元の中日ドラゴンズを応援し、田尾選手に憧れる、普通の野球少年でした。
まあ、子供のころからイチローのバットは血で赤く染まっていたと言いますから、「普通」ではなかったかもしれませんが…。
しかしイチローが熱望していた中日は、投手として物足りないとしてあまり評価していませんでした。高校ではピッチャーとして投げていたので、打撃には目をつけていなかったようです。
そこで現れたのがオリックスです。当時の三輪田スカウト、中田編成部長はことごとくバットの芯で打ち返していくイチローを見てほれ込み、2位指名を熱望します。
ただ体の線が細すぎることを理由に、2位指名は見送られることになりました。
幸いなことに中日をはじめ、同じく高く評価していた日ハムが指名しなかったため、オリックスに4位で拾われることになったのです。そんな経緯もあって三輪田スカウトの没後、イチローは墓参りを毎年行っているようです。
中日ファンだったにもかかわらず評価してもらえずオリックスに拾われたイチロー。しかしそこで新井コーチ、そして仰木監督と運命的な出会いを果たします。
1993年には独特の振り子打法で当時のプロ野球新記録となる210安打を記録するなど、スーパースターへの階段を駆け上っていくのでした。
引退後もイチローは球団のあった神戸の地をたびたび訪れており、「KOBE CHIBEN」という草野球チームを作って神戸で試合を行ったりしています。
中日でなくオリックスであったことが正解かどうかは今となっては分かりません。
しかし投手としてみていた中日ならば、日本、そしてメジャーリーグの安打記録を次々に塗り替えるイチローは生まれていなかったかもしれないのです。
3.松井秀喜(1992年巨人ドラフト1位)
松井秀喜は1974年、石川県に生まれます。
幼少期から大の阪神ファンであり、松井が左打ちにするきっかけも憧れていた阪神の掛布が左打ちだったからでした。
イチローと違い甲子園で大活躍、「20年に一人の怪物」と騒がれます。明徳義塾戦での5打席連続敬遠はいまなお語り継がれる伝説です。
もちろんドラフト会議においても目玉中の目玉になります。希望球団は当然阪神タイガース。
しかしそうは問屋が卸しません。阪神も含め、読売ジャイアンツ、中日ドラゴンズ、福岡ダイエーホークスとの競合になります。
くじ引きの結果、交渉権を獲得したのは…
阪神の永遠のライバル、巨人でした。
右手を掲げ笑みを浮かべる長嶋監督、複雑な表情の松井が実に対照的です。
しかしながら、これが球史に残る師弟関係の始まりでした。
長嶋監督は「1000日計画」を立ち上げると、松井につきっきりで指導を行います。その日のスイングの音で松井の調子が分かったと言いますから、驚きです。
長嶋の1000日計画は見事に実を結び、4年目となる1996年には打率.314、ホームラン38本、打点99と見事に日本を代表するバッターへと成長しました。その後の活躍は言うまでもありませんね。
引退後の2013年には、師匠の長嶋茂雄と同時に国民栄誉賞を授与されます。
これまでも野球選手での国民栄誉賞受賞者は数多くいますが、師弟同時、しかも球場で授与式を行ったのはこれまでありませんでしたし、恐らく今後もないでしょう。
運命のくじ引きが、伝説の師弟関係を生み出すきっかけとなったと言っても過言ではありません。
4.落合博満(1978年ロッテドラフト3位)
落合博満は1953年秋田県生まれ。長嶋茂雄に憧れて野球をはじめ、秋田県内の高校に進学します。
体罰が嫌で甲子園常連校でなく県内の無名校を選んだのですが、予想と違って理不尽なしごきがありました。そういう時代だったのでしょうか…。
結局それが嫌で野球部を退部し、映画館に入り浸る生活が始まります。それでも実力では抜きんでていたため、試合になると頼まれてろくに練習もしていないのに復帰、活躍しては退部を繰り返していました。そんな人他に聞いたことがありません。
高校卒業後は東洋大学に進学しますが、やはり体育会系の慣習が合わず退部、そして大学も中退。
秋田に帰った落合が志したのは、なんとプロボウラーでした。当時はボウリング全盛期で、ボウリング場でアルバイトしたのがきっかけだったようです。
しかしやはりあまりに野球の才能があったため、高校時代の恩師に勧められて東芝府中の野球部に入部します。
期間工として雇われたため、昼間はラジオの基板の組み立て、夕方から野球の練習という生活を送ります。どこまで行っても波瀾万丈な野球人生です。
その中でも結果を残し、1978年にやっとロッテに3位で指名されます。25歳という極めて遅いプロ入りとなりました。それでも、当時の城之内スカウトはその才能を見抜いていたというから驚きです。
その後はプロ野球唯一の3度の三冠王、そしてプロ野球のシーズン記録となる出塁率.487を記録し、不滅の大打者として名をはせました。
一度は野球を辞めてプロボウラーを目指し、期間工として働きながら野球を再開、そしてミスター三冠王へ。こんな経歴の選手は今後も現れないでしょう。
5.まとめ
イチローは中日、松井は阪神、落合はプロボウラーという、まったく違う道を志していましたが、それでも思惑通りにはいきませんでした(落合はちょっと毛色が違うけど…)。
しかしながら、3人とも本人の意図とは違う道を進み、大成功を収めました。
この3人を見ていると、「行きたいところに行く」よりも「求められているところに行く」方が実は成功の近道なんじゃないかな、と思わされます。
このように何が起きるか分からないドラフト会議は難しくもあり、また面白くもあります。なんだか人生と重なって見えます。
今年はどんなドラマが起きるでしょうか。その結末は神のみぞ知る、といったところでしょう。
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