本コラムも、いよいよ第55回を迎えました!
ということで今回は読売ジャイアンツ、そしてニューヨークヤンキースの背番号55、2013年に国民栄誉賞を受賞した国民的スター、松井秀喜を取り上げます!
しかしこのブログではいつものように、そんなにストレートな記事は書きません(笑)
松井秀喜という男の人間的な面、面白いエピソードなどを中心にまとめてまいりますので、お気楽にお読みください。
1.松井秀喜ができるまで
松井秀喜は1974年6月12日、石川県生まれ。生まれた時から4000gほどあったらしく、保育園入園時には「保育園史上最大の園児」との異名が付きました。保育園児の時点ですでに伝説を残していたとは…。
体格が大きかったために小学3年生の時誘われて野球チームに入団しましたが、当時は監督の指示などが十分に理解できず一度やめてしまいます。
本格的に野球を再開したのは小学5年生の時。元々右打ちでしたが、あまりにボールを飛ばすため兄に言われ左打ちにしました。
さらに、実家のある石川県は西日本。ということでご多分に漏れず松井秀喜も大の阪神ファンでした。左打ちに変更したのも、憧れだったミスタータイガース掛布雅之が左打者だった、というのが大きく影響していたようです。
柔道の道に進むか迷ったこともありましたが、中学入学時には野球に専念(ドカベンみたい…)。BSでメジャーリーグの試合を見るようになり、憧れを強めていきます。
星稜高校に入学すると、並外れた体格とパワーを生かし1年の時点で4番に君臨。「北陸の怪童」と呼ばれ、本塁打を量産していきます。
2年時には背筋力250kg、バーベル上げ150kgを記録し、「清原和博以来の数値」をたたき出すなど、順調に怪物としての道を歩んでいきました。
統率力を買われ山下監督に主将に指名され迎えた3年。春のセンバツではラッキーゾーンが撤去されたにもかかわらず2打席連続本塁打、2試合連続本塁打を記録するなどホームランをかっ飛ばしまくります。
夏の甲子園では大いに期待されましたが、明徳義塾戦で松井秀喜最大の伝説となる5打席連続敬遠を受け早々に敗退。明徳の馬淵監督に「高校生の中に一人プロが混じっていた」と言わしめます。
高校通算打率.450、高校通算本塁打60本というどっからどう見てもバケモンみたいな数字をたたき出した松井は、もちろんドラフト会議でも一番の目玉となります。
阪神ファンだった松井は、もちろん阪神タイガース入団を希望。しかしドラフト会議では阪神の他巨人、中日、ダイエーの競合となります。
くじ引きの結果交渉権を引き当てたのは、巨人の長嶋茂雄監督でした。阪神入りを熱望していた松井が複雑な表情を浮かべているのが印象的です。
しかし実際に長嶋監督からの電話を受けるとすんなり巨人入りを受け入れました。
入団当初はプロの壁を痛感し、2軍落ちも経験するなど苦しみましたが、セリーグ高卒ルーキーの新記録となる11本塁打を記録するなど怪物の片りんを見せつけました。
更に長嶋監督も目をつけ、「1000日計画」を立ち上げました。毎日毎日、来る日も来る日も松井と長嶋は二人っきりで練習に励み、最終的にはスイングの音だけで松井の調子が分かるほどになっていました。
このような努力の甲斐もあって松井の才能は開花。MVP3回、首位打者1回、本塁打王3回、打点王3回など球界を代表するバッターに成長、ここに怪物松井は完成を見たのでした。
2.ゴジラからGodzillaへ
こうして球界を代表するバッターとなった松井でしたが、中学時代から見ていたメジャーリーグへのあこがれも人一倍強くなっていました。
そして2003年、FA権を行使して念願のメジャーリーグ、ニューヨークヤンキースへ移籍します。
当時はまだメジャーリーグに挑戦する選手がほとんどおらず、ましてや巨人から移籍するのは初めてとあって一部のファンからは批判も受けますが、松井が「命を懸ける」とまで発言したこともあって多くの野球ファンからは好意的に受け入れられました。
4月8日の本拠地開幕戦では、メジャー初本塁打となる満塁ホームランを放つなど鮮烈なデビューを飾った松井でしたが、なかなか打球が上がらず「ゴロキング」と呼ばれるなど1年目は苦労するシーズンでもありました。
しかしメジャー移籍2年目にはキャリアハイとなる.298、31本、108打点の成績を挙げると、3年連続で100打点を記録するなど安定した成績を残しました。
2006年には左手首を骨折するなど故障にも悩まされ、以前のような安定した成績を残すことはできなくなってしまいましたが、それでも今なおニューヨーカーの記憶に強烈に残っているのは、2009年ワールドシリーズによるものでしょう。
このシリーズで松井は野球人生最高とも言える絶好調の状態でした。13打数8安打3本塁打8打点、さらにワールドシリーズ最多タイとなる1試合6打点を記録するなど大暴れ。
ワールドシリーズMVPにも選出され、MLBの歴史に名を残すことになりました。
ヤンキース退団後はエンジェルス、アスレチックス、レイズと渡り歩きますが、故障の影響もあって安定した成績を残せず、2012年に引退。
日米合わせて507本の本塁打を記録するなど、記憶にも記録にも残るスター選手でした。
3.松井秀喜とはどんな男?
さて、ここでは松井秀喜がどんな男かという点に絞ってみていきましょう。良くも悪くも規格外の男です。
・超マイペース
巨人に入団して1年目、恩師であるはずの中畑コーチの運転する車で、いびきをかいて爆睡。
更には子供の頃のあこがれだったはずの掛布との対談で、
「僕の子供の頃のあこがれだったんですよ?(肘をツンツンつつく)」
「今はただのオッサンですけど」
「首位打者取ったことあるんですか?(僕はありますけど)」
など、好き勝手にいじり倒しました。なんとまあ自由な…。
また遅刻魔としても有名で、2004年のオールスターでも遅刻、そしてワールドシリーズ第2戦でも遅刻。ただ本人曰く「遅刻したつもりはない」とのこと…。
しかし遅刻した試合ではホームランを放つなど活躍することが多く、ジンクスの一つとして数えられていました。
・AVマニアを公言!
独身時代からAV鑑賞が趣味であることを公言していました。そんな選手なかなかいませんて…。
本人曰く「松井流ストレス解消法」であり、ストーリーのしっかりした単体ものが好きなんだそうです。
月に数本のペースで鑑賞していましたが、2008年の結婚を機にすべて処分してしまったそうです。
…のはずだったのですが、いつの間にかAV収集を再開。アメリカでは55000本のコレクションを保持しているとか、いないとか。
・でもなんだかんだでみんなに好かれる
とまあなんとも破天荒な松井ですが、「他人の悪口を言わない」という父の教えをかたくなに守るなど非常に温厚で誠実な人柄です。
またグラブなどの野球道具を大事にしていたことでも知られており、その姿勢はヤンキースの監督や選手からも高く評価されていました。こちらも子供のころからの教えを忠実に守っていたのだそうです。
更に統率力ではずば抜けたものがあり、クラスのいじめられっ子が松井の裏に隠れただけですべてが解決した、と言われるほど。授業態度もよく、星稜高校では「総長賞」を贈られたこともあります。
そういった人柄もあって、とかくこじれがちな記者やマスコミとの関係性も非常に良好だったと言います。
どんなに時間が遅くなっても記者のインタビューは欠かさず行い、オフシーズンには記者との草野球で交流を深め、焼肉などの食事会も頻繁に行っていたそうです。
この姿勢はメジャーリーグでも貫かれ、初年度には地元の記者たちを食事に誘いました。こういったことをする選手はこれまでにいなかったので、非常に驚かれたと言います。
しかも松井はこの場でAVをプレゼントしたんだとか(笑)
どんだけAV好きなんだ…。ニューヨーカーもAV楽しんだのでしょうかね。
4.まとめ
とまあ体も中身も普通の日本人のものさしでは測りきれない松井秀喜のご紹介でした。
なんだかんだいっても2009年のワールドシリーズでの大活躍は日本人の心にも強く残るものでしたし、平成の大スターの一人であることは間違いないでしょう。
引退後はなんとなくつかみどころのない立場にいる印象がありますが、果たしてニューヨークでコーチ職に就くのか、はたまた日本に帰って何らかのポジションにつくのか、それは誰にも分かりません。
ま、このままのらりくらり過ごすのもまた松井らしいのかもしれませんね(笑)
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