2023年1月24日、南海ホークスの主砲を務めた門田博光氏が亡くなりました。
通算本塁打数、通算打点ともに王貞治氏、野村克也氏に次ぐ第3位という日本を代表する大砲でした。
しかし、王氏、野村氏に比べるとメディア露出も少なく、指導者としてもほとんど活動していなかったことから、どういった選手だったのか、どういった人柄なのかを知る機会は中々なかったのが実情でしょう。
そこで今回は門田氏を偲び、その生涯を追っていきたいと思います。
1.年齢を重ねるごとに凄みを増していった打棒
1948年、山口県に生まれた門田氏は、父親が事業に失敗した影響でつつましい子供時代を送りました。
天理高校の4番として活躍した後は、クラレ岡山硬式野球部に進みます。
高卒即プロではなく、一度社会人野球を経験しているんですね。当時は靴の制作業務に携わっていたようです。
1968年には阪急ブレーブスから12位で指名を受けますが、順位が低かったことと当時のチーム事情からこれを断ります。
この指名を受けていたらプロ野球界の運命は変わっていたかも…。
翌年には南海ホークスから2位指名を受けいよいよプロ入り。
入団2年目には31本のホームランを放ちその素質を存分に発揮しますが、実はその後8シーズン30本以上打つことはできず、どちらかというと中距離砲タイプの成績を残しています。
しかし1979年のキャンプ中、アキレス腱を断裂する大けがを負います。ここから運命が変わっていくのです。
このシーズン、全治6か月となりそのほとんどを棒に振ってしまいましたが、野球の素人であるはずの医師に「足に負担がかからないようすべてホームランを狙ってみては?」と言われたことで意識が変化。
その結果、長距離砲としての才能が開花。
1980年には初の40本越えとなる41本のホームランを放つと、翌1981年には44本のホームランを放ち初のホームラン王のタイトルを獲得。
年齢を重ねてもその打棒は衰えるどころか凄みを増していき、1988年には40歳にして打率.311、ホームラン44本、打点125で本塁打王、打点王の2冠を獲得。MVPも獲得するなどキャリアハイの成績をたたき出します。
868本のホームランを放った王氏ですら40歳で引退したことを考えると、そのすさまじさは筆舌に尽くしがたいものがあります。
その後2年間オリックスに移籍してからも30本以上のホームランを放つなど活躍しましたが、さすがの門田氏も年齢による衰えは隠せず、1992年に44歳で引退。
最後はメジャーリーグでも活躍した野茂英雄氏からすべて直球で空振り三振。最後までフルスイングの野球人生でした。
積み重ねたホームランは567本で歴代3位、安打も2566本放つなど、数字を見れば日本歴代屈指のスラッガーであることは間違いありません。
2.野村・王にも譲らなかったホームランへのこだわり
入団2年目に31本のホームランを放ってからは、ホームランへのこだわり、異常ともいえる執着心を見せるようになります。
あまりに強振が目立つため当時の野村克也監督に注意を受けるも譲らず、しまいには王に頼み込んでともに説得するも門田は「二人とも大振りしている」と反論。
王氏も呆れ果て、野村氏は激怒、以降野村氏との確執は深まっていってしまいました。
門田は来る日も来る日もバットを振り続け、前述のようにアキレス腱を断裂してからはホームランへのこだわりがより強くなっていきました。
村田兆治からは14本、山田久志からは28本のホームランを放つなど、歴代の名投手とも名勝負の数々を繰り広げてきました。
そして引退試合で三振を喫した野茂英雄のプロ初被弾は、門田博光でした。
その一方で野村氏との確執は深く、ことあるごとに衝突していました。
その内容を見るとどっちもどっちかなあという風にも思えるのですが、お互い尋常ではないほどの負けず嫌いだからこそぶつかり合っていたんだろうな、とも思います。
道は違えど、どちらも超一流の成績を残していますから、行きつくところは同じだったのでしょう。
それでも、お互いの実力は認めていたようで、門田を最初にスタメンに抜擢したのも野村氏でした。
門田も野村氏が3000試合出場の試合でマスクをかぶる目の前で恩返しとばかりに2打席連続ホームランを放ったなど、マンガみたいなエピソードもあります。
本当に仲が悪いというよりは、プロレスみたいな関係性だったのかもしれません。
2013年には、ホークス創設75周年を記念し王氏、野村氏と並んで3人でセレモニーに参加。
一応の関係は修復されていたようでした。
最終的に野村氏は、「とことん打撃を追究する門田ほどの野球バカは、もう二度と出てこんやろうなあ」とつぶやいていたとのことです。
どっちもどっちの野球バカを生涯貫いたんだろうな、と感じさせられます。
3.くすぶり続けたホームランへの情熱
しかし門田は、引退後も監督として大活躍した王氏、野村氏に比べると指導者としても活動せず、かといってメディアへの露出も決して多くはありませんでした。
そんな門田はどのように日々を過ごしていたのでしょうか?
wikipediaによれば、広島でお好み焼き屋をやっていた、ドラマにゲスト出演した、社会人野球のクラブチームを設立した、趣味で陶芸や油絵などをやっていた、などの断片的な情報はあるものの具体的なところはわかりません。
しかし、Sportivaの方に生前のインタビュー記事が上がっていました。
結局どのように日々を過ごしていたかについては分かりませんが、このインタビュー記事を通してみてみると、
・ホームランはもっと頑張れば600本以上打てたという後悔
・後継打者を育てる機会に恵まれなかった無念
・野村監督には本当に尊敬の念を抱いていた
・ホームランへの情熱は引退してからもずっと持ち続けていた
・しかしその打撃論は誰にも伝えることができず、最終的には関西の山奥でひっそりと暮らしていた
といった、亡くなった今読み返してみると非常に切なくなる思いの数々が伝わってきます。
きっとこのインタビュー記事が、門田がこの世に遺した最後の遺言だったのかもしれません。ぜひともお読みいただければと思います。
4.まとめ
以上、門田博光の生涯でした。
もしかしたらその考え方、野球理論は令和の時代においては前時代的だったのかもしれませんし、そもそもあまりにも独特すぎたために誰にも理解されることがなかったのかもしれません。
しかしそんな中で放った567本塁打という記録はプロ野球界に燦然と輝くものですし、だからこそ誰にも理解できなかったのかもしれません。
そんな孤高の天才門田博光の生きざまが、こうして記事にすることで少しでも伝われば幸いです。合掌。
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