時々行う伝説の男シリーズです。誰を取り上げるか、いつやるかは完全に気まぐれです。
今回取り上げたいのは榎本喜八選手。イチローや坂本勇人でも破れなかった通算1000本安打、2000本安打の最年少記録を持ち、通算2314安打は歴代15位。
首位打者2回、ベストナイン9回など輝かしい実績を持ちます。
しかしあまりに特異なキャラクターでメディア露出はおろか球界とのかかわりも一切持たなかったため、現在では「忘れられた伝説の人」といった感じになっています。
今回はそんな打撃の求道者ともいえる榎本喜八の強烈なエピソードをお楽しみいただきたいと思います。
1.極貧生活から始まった打撃道への渇望
1936年農家に生まれた榎本喜八は、太平洋戦争により幼少期から極貧生活を強いられました。
とにかくお金がなく屋根には穴が開いて雨漏りし、電車に乗ったこともなく、お肉を食べることもできませんでした。
初めて食べたのは中学生になってからで、しかもカエルの肉だったと言います。
そんな生活が苦しい中で観戦した後楽園球場での巨人戦を見て、強い憧れを抱いたことからプロ野球への道のりが始まります。
早稲田実業高校に進学すると3回甲子園に出場するなど活躍。とはいえ全国大会では結果が出ず、打撃にも大振りが目立ち評価はあまり高くありませんでした。
それでも幼少期の貧しい生活を送った経験から家族のためにお金を稼ぐべくプロ入りを熱望し、早実の先輩で毎日オリオンズに入団することが決まっていた荒川博に懇願。
荒川は「これから3年間、毎日朝5時に起きて登校する前に500本素振りすれば、世話してやる」とあしらいましたが、榎本はこれを3年間真面目に実行。
根気に負けた荒川の売込みにより無理やり入団テストが組まれると、その打撃に当時の一流選手たちが「すでに手を加える必要がない」と目を丸くしたと言います。
その打撃の神髄は彼の類まれなるセンスと感性に裏打ちされており、常人には全く理解しがたいものでした。
練習には武道を取り入れ、来る日も来る日も練習、練習。正月すら休むことなく、ただひたすらに打撃の神髄を求め続ける日々を送りました。
その打撃フォームの調整方法もあまりに独特で、試合前には30分バットをもって微動だにせず、「いい練習ができた」と満足げに立ち去っていきました。
その打撃の感覚もまた独特で、「体を意識することで臓器の位置まで分かった」「箸を使うくらい無意識にバットを振る」「ヒットを打っても内容が悪いと納得しなかった」など普通の人間では理解しがたい域に達しつつありました。
2.とうとう神の域へ
そんな榎本は、とうとう神の域へと到達してしまいます。
その日付もはっきりしていて、1963年7月7日対阪急戦でのこと。
この試合で榎本は、体の動きが寸分の狂いもなく認識でき、次にどんな球が来るのかが手に取るようにわかるという体験をしました。
以降19試合で打率.411を記録し、特に14日以降の11試合では打率.588を記録。
この時の経験は本人にとっても特別なものだったようで、
「これまではピッチャーとのタイミングで一喜一憂していたものが、それがなくなってしまった」
「ピッチャーの投げた球が指先から離れた瞬間からはっきりわかった」
「夢を見ている状態で打ち終わり、それからスッと夢から覚めて走り出す」
といったもはや超常現象を体験したかのような言葉を残しています。
しかし同年8月1日、守備で一塁ベースに駆け込んだ際に左足をねんざして欠場。
以降打席に入っても感覚が戻らなくなり、榎本はショックのあまり号泣し、絶望に打ちひしがれたと言います。
それ以来、「神の域」を模索し続ける人生が始まってしまいました。
3.収まらない奇行の数々
「神の域」を終えた後、その感覚を追い求めるあまり榎本はより奇行が目立つようになりました。
耳鳴り、頭痛、悪寒といった体調不良が目立つようになり、試合後もただひたすら打撃練習をするなどますます打撃の研鑽に打ち込んでいきました。
自分でも感情のコントロールができなくなり、例え試合の成績が良くても打撃に納得がいかないとバットで自宅の窓ガラスを割ったり、椅子に座って7時間瞑想にふけるなど奇行はますます悪化していきました。
1971年に成績不振で二軍降格が言い渡されると、とうとう猟銃を持って自宅の応接間に立てこもりました。
恩師である荒川が駆けつけるも天井に向けて威嚇発砲。もはや誰の手にも負えない状態になってしまいました。
このエピソードについてはしばらく真偽のほどが問われていましたが、晩年に本人が認めたことからどうやら本当だったようです。
最終年は打率.233と低迷し、引退試合も報道もほとんどなく、球界から消え去るように引退していきました。
引退後も球界と接点を持たずメディア露出も全くと言っていいほどなかったので、関係者も安否すらろくにわかっていなかったようです。
そのためどうやって暮らしていたのかもよく分かりませんが、あまりに打撃道を究めすぎたために後継者も現れず、誰にも理解されることはなかったというのは間違いないようです。
この点においては門田博光と通ずるところがあったのかもしれません。
4.まとめ
榎本の打撃に対しては数々の名選手たちが絶賛しており、野村克也や稲尾和久といった超一流選手たちが最もやりにくかった選手として榎本の名前を上げるほどです。
その一方であまりに真面目で愚直すぎたという評価もあり、
「チームを勝たせることより自らの打撃を優先した」
「打撃の完成度は王より榎本の方が高いが、王は適度に抜いていたのに対し榎本は突き詰めすぎて精神がやられてしまった」
などとも評されています。
あまりに独特な選手だっただけにエピソードに多少尾ひれはひれがついているようですが、とはいえその凄まじさだけは間違いなかったようです。
今の時代にこういう選手が出てくることはなかなかないでしょうが、昭和にはこういう選手もいたんだなと思うと、野球がより面白く見えてきますね。
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