10月1日は、アントニオ猪木の命日です。
プロレスラーとして、政治家として、タレントとして、大きな影響を与えたアントニオ猪木の死は、多くの人にショックを与えました。
一周忌を迎える今、改めてその生涯を追っていきたいと思います。
1.今に至る新日本プロレスの立ち上げ
アントニオ猪木は1943年2月20日、神奈川県横浜市生まれ。
戦後復興の中で貧しい生活を過ごし、13歳の時に家族とともにブラジルに移り住みます。
ブラジルでは朝5時から丸12時間コーヒー豆を収穫するなど過酷な労働に従事していたと言います。
そんな中、興行でブラジルを訪れていたスーパースター力道山の目に留まります。
いきなり「おい、裸になれ」と言われ上半身を脱いだところ、その筋肉を見ていきなり合格。すぐさま日本に帰国し日本プロレスに入団します。
力道山の付き人、アメリカでの武者修行を経て日本プロレスに戻るも、そこには当時大人気だったジャイアント馬場が待っていました。
「このまま日本プロレスにいてもジャイアント馬場との差は開くばかり」
「日本プロレスからの扱いも良くない」
と感じていた猪木は、先輩レスラーである豊登に引き抜かれる形で東京プロレスの立ち上げに参画。
しかし営業はうまくいかず、東京プロレスはわずか3カ月で破産。そして一旦は日本プロレスに戻るも結局折が合わず、独立を志向。
ついに1972年、現存日本最古のプロレス団体である「新日本プロレス」を立ち上げます。
2.プロレスこそ格闘技最強だと証明する!
新日本プロレスの大きな特徴と言えば、「ストロングスタイル」でした。
とにかく派手で、いかにもプロレスらしい試合をしていた全日本プロレスとは対照的。
新日本プロレスが目指したのは、黒のパンツとシューズを身に着け、技の派手さよりもひたすらに「強さ」にこだわる、いかにもストロングなスタイルでした。
その中で最も象徴的だったのが、1976年に行われた「アントニオ猪木vsモハメドアリ」の異種格闘技戦。
モハメドアリはボクシングの世界ヘビー級チャンピオンでしたが、半分リップサービスで「100万ドルを用意するから、東洋人でかかってくるものはいないか?」と発言。
これに猪木が乗っかる形で話は進んでいきましたが、プロレスラーとボクシング世界チャンピオンが戦うなんてあまりに突拍子もない話で、最初はマスコミも冷めていたと言います。
しかし意外とアリもノリノリで、「猪木なんて奴は知らなかったが相手してやる」と挑発。
とはいえあまりに無理があったのか、さすがにアリのマネージャーがいったん話を白紙に戻してしまいました。
ところが今度は猪木側がアリを挑発しアピール。アリを逃げられないよう外堀を埋めていきます。
こうして猪木vsアリの世紀の一戦が実現しました。
会見ではアリが「猪木のあごはまるでペリカンだ。そのくちばしを砕いてやる」と挑発すると、猪木は「アリは日本語でどういう意味か教えてやる。虫けらを指す言葉だ」と対抗。
まさにプロレスチックな応酬でこれだけでもゾクゾクします(笑)
ただしルールの決め方もかなり強引で、肝心の試合はキックを繰り返す猪木とそれに対しやる気をなくすばかりのアリという構図となり、特に大きな盛り上がりもありませんでした。
結果も引き分けに終わってしまい、「世紀の凡戦」とも揶揄されることになってしまいました。
とはいえ良くも悪くもこの試合の影響は大きく、特にこの二人同士の関係はアリが2016年に亡くなるまで続くなど良好なものでした。
これ以外にも猪木はプロレスラーの代表として異種格闘技戦を行ったり、あるいは他団体と対抗戦を行うなどしてプロレスが「格闘技最強」であることを目指し続けました。
現在でも新日本プロレスは「KING of SPORTS」を掲げるなど、その魂は受け継がれています。
3.「自らの死」をもエンターテインメントに
猪木はレスラーとしての引退後も政治家として、タレントとして、実業家として、マルチに活動をつづけました。
そんな中、突如2020年に「最後の闘魂」というYouTubeチャンネルを立ち上げました。
その動画の中の猪木はこれまでのイメージとは全く違うもので、体はやせ細り、声はかすれ、呂律も回らず、歩くことも立ち上がることもままならない、あまりに弱弱しい姿でした。
しかしそんな中でも、猪木は気丈にふるまいました。
自分がどんなに体調がふるわなくとも撮影スタッフや周りの人への気配りを忘れず、そして何より視聴者を楽しませたい、そんなサービス精神が伝わってくるものでした。
そして2022年10月1日、猪木はこの世を去りました。
猪木の死の影響の大きさは計り知れず、プロレス界、芸能界、政界、そして日本中に大きな悲しみを与えました。
しかし2023年3月7日に両国国技館で行われたお別れの会には、7000人もの関係者やファンが駆けつけ猪木を送り出しました。
古舘伊知郎の実況風弔辞や藤波辰爾の別れの言葉など、最後の最後まで人を楽しませることを貫いた猪木らしい葬儀となりました。
4.まとめ
記事を書いていて感じたのですが、猪木の生涯をたった一記事でまとめるなんて土台無理な話でした。
それだけスケールが大きくて、文字には収まりきらない、そんな人だったんだなと感じました。
ファンの人は今一度思いをはせるきっかけにしていただいて、そうでなかった人はその生涯に興味を持つきっかけにしてもらえればと思います。
最後にやはり、この言葉で締めたいと思います。
元気があれば何でもできる!行くぞー!
1,2,3,ダーッ!
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