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格差社会とスポーツ~スポーツでの成り上がりはできるのか~【コラムその111】

現代社会の大きな闇、それが格差社会です。

お金、身分、生まれなどなど格差を生む原因はそれぞれですが、この世の中に格差があることは否定のしようがありません。

 

その一方で、貧しい身分からスポーツ一本で成り上がる、シンデレラストーリーも数多く語られています。

例え何が無くてもスポーツの技術さえあれば、それだけで一生分食べていけるだけのお金を稼ぐことができるからです。

 

そこで今回は、格差社会とスポーツについて考えてみることにします。

(今回の記事は映画「パラサイト 半地下の家族」に多分に影響されていますことをご承知おきください、というか面白いので皆さんもぜひ見てみてください)

 

1.現代にはびこる闇・格差社会

まずは格差社会とは何か。Wikipediaによれば、

「格差社会(かくさしゃかい、英: Social polarization)とは、収入や財産によって人間社会の構成員に階層化が生じ、その階層間の遷移が困難な状態になっている社会を意味する語。」とのこと。

感覚的にはとても分かりやすいのではないでしょうか。

 

いい家に生まれた子は良い人生を送れるし、そうでない場合はそうでない人生を送る可能性が高いし、と、端的に言えばそういうことです。

昨今流行っている「親ガチャ」という言葉は、それをストレートに表した言葉だと言えます。

 

現状世界的に資本主義が主流となっていますが、資本主義というそのシステム上絶対に貧富の差が生まれるため、必然的に格差社会が完成します。

これを是正しようと社会主義といった考え方も生まれましたが、ソ連が崩壊したことでこのやり方は失敗した、と考えられています。

 

とはいっても、資本主義が100%正しいやり方かどうかはまだわかりません。これから人類が時間をかけて、よりよい仕組みを作っていくのでしょう。

 

そしてこれ以上は、この記事と関係なくなるのでノータッチとさせていただきます。

深く調べたい方はネットで調べたり本を読んだり、あるいは大学に行って勉強してみてください。

 

2.スポーツで成り上がることはできるのか

さて、この記事の本題であるスポーツでの成り上がりについて調べてみましょう。

まずこのテーマでパッと思い浮かぶのは、南米やアフリカのハングリー精神あふれるサッカー選手たち。

 

たとえばルイス・スアレスは南米ウルグアイ出身、プレミアリーグなどで得点王を獲得した超一流選手ですが、子供の頃は靴を買うお金がなく裸足でプレーしていたと言います。

あるいは元ブラジル代表のロナウジーニョなども、貧しい街に生まれ幼少期は苦労したと言います。

 

これらは海外の例ですが、より身近な日本にも貧困の中子供時代を過ごした選手がいます。

例えば、オリックスの宮城投手。

 

今ではオリックスのエース格の一人として大活躍するピッチャーですが、子供の頃は父親が交通事故にあい定職に就けず、貧しい子供時代を過ごしました。

 

ユニフォームはつぎはぎだらけで、グローブはビニール製の安物を使ったり、食事もままならずパンだけでやり過ごす日々もあったそうです。

周りからは陰口をたたかれるようなこともあったようですが、そんな中でもめげなかった宮城投手はめきめきと頭角を現しオリックスに1位指名。

今では日本一となったオリックスの立派な主力です。

 

またサッカー界にも、貧困から成り上がった選手がいます。

川崎フロンターレの主力として活躍する小林悠選手もその一人。母子家庭で育った彼は、食事も十分にできないで過ごす日々を送りました。

そんな中でもなんとかサッカー用具だけはそろえることができ、練習に打ち込みました。その結果、J1の優勝クラブで活躍することができたのです。

 

スポーツでの成り上がりは可能か可能でないか、そのどちらかで言えば可能である、と言えるでしょう。

 

3.貧乏なのは努力が足りないからだ!とは言えない

しかしここで上げた例は、ごくごく一部の特別な才能に恵まれた選手に過ぎません。

そのほとんどは満足な練習環境を確保できずその才能が埋もれたまま終わるか、あるいはそもそも才能がなく終わってしまうか…。

 

そうして消えていった子供たちの行方は知るすべもありません。ちょっとグレるぐらいで済めばよいですが、おそらくそのまま人生はめちゃくちゃになり…。

 

そういった子供たちに対して、一部の超特殊な例を取り上げ「貧しくても努力をして成功を勝ち取った人もいる」「貧しいのは努力が足りないからだ」などと無責任に言える社会は、あまりにも危険だと思います。

 

なぜなら、この世にいる誰しもがそういった危険と隣り合わせで生きているからです。病気、けが、事故、自分だけでなく周りの人たちにもいつ何が起きるか分からないのですから。

誰しも貧乏になりたくてなっているわけではないのです。

 

もちろん成り上がりストーリーに感動するのは人間として普通の感情ですが、それを他人を殴る武器にするのはあまりにも軽率な行為でしょう。

こういう問題においてまず考えるべきは、社会のセーフティーネットをいかに拡充できるか、ということにかかっているはずですが、果たしてそれをちゃんと理解し行動できている政治家はどれくらいいるのかなあ…。

 

4.まとめ

以上、格差社会とスポーツの関係について考えてみました。

もちろん、スポーツ一本でのし上がることは可能ですし、そうしたストーリーが感動を呼び起こすのは割ることではありません。

しかしその一方で、そういったストーリーを利用し貧困にあえぐ人たちを攻撃するのはあまりにも卑劣な行為です。

 

資本主義を取る以上、どこかで格差が生まれるのはこれはもうしょうがないことだとは思います。そういう仕組みなのですから。

その一方で、なるべくみんながみんな平等に権利を与えられる世の中であってほしい、そう願います。

 

 

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